カタラータ・カルパ物語 ~1年目12月(その2)~

ジムの扉にある小さな擦りガラスの小窓から
ぼんやりと灯りが見える。

「昨夜は消えていたはずだが?」

取っ手を引くと扉はゆっくりと開いた。隙間から乾いた音が洩れ出す。
なんとなく、その邪魔をするのを憚れたか若き社長は
そろりとジムの中に足を入れる。その後音の主を確認し、

「斉藤か、ずいぶん早いじゃないか」

それからきっかり3秒、サンドバッグを両の手で大事そうに受け止め
斉藤は入口で声を掛けた雇い主の方を振り向き、

「ああ、社長。おはようございます」

ほんの少し口の端に笑みを浮かべ挨拶を返す。
それに応えてか否か、男は軽く右手を挙げ、

「練習熱心な事はいいが、大丈夫か?」
「あの日は一日首が痛かったですが」

斉藤は無駄な事は一切言わない。しかし、社長が聞いた質問には
きちんと答えてみせた。

「君ならそう言うとは思ってはいたが……」
「社長のおかげですよ」
「僕の……?」

ジムの奥、三つのサンドバッグが並ぶ一番奥に斉藤はいた。
斉藤が蹴っていたそれに未練があるのかそうでないのか、
話の最中も向かっていたその場所への歩みを止める。

「社長が自分を、まだ8ヶ月ですけど」

斉藤は男が足を止めるのを確認し、今まで蹴っていたサンドバッグに目を向ける。
しばらくそれを慈しむかのように撫でながら短い沈黙の後、

「社長が、自分に基礎を叩き込んでくれましたから」
「そんなご大層な事を教えたか?」
「自分が怪我もせず、こうして練習ができるのも社長のおかげですよ」
「僕の? 君が頑張ったからだろう。僕は別に」

斉藤は再びほんの少し口の端に笑みを浮かべて、

「とにかく、社長が鍛えて下さったので大丈夫です」
「僕が君に無茶をさせた事についてはどうなんだ?」

レフェリーの独断で参加させる事になった、とは言わず尋ねる。

「うーん、そうですね……。一つ勝つ、というのが」

そこで斉藤は言葉を切り、心底嬉しそうに笑みを浮かべながら、

「あれほど嬉しいと。忘れていた事を思い出せました」
「確かに一つ勝ったし、それは君が取ったものだ。
 でも、残りの六つは負けてるんだぞ?」

一勝六敗。それがExリーグでの吉原・斉藤組の結果だった。

「自分はこの世界に入ってから勝った試しがありません」

斉藤の言葉は事実ではない。
実際には後輩の森嶋・柳生・保科に対しては公式戦でいくつも
勝利を収めている。しかし、そんな事を言っているのではない事は
男にも十分理解できた。

「ここに入る前、当たり前だった事を思い出せたんです。
 社長にこの世界に入った時折られた自分の……」

しばしの沈黙。社長はなんとなく斉藤の隣のサンドバッグまで近づく。

「その、何というか自信を取り戻せました」

社長は黙ってサンドバッグを眺めている。

「この気持ちを思い出させて下さった事に恩返しがしたいんです」
「恩返し……?」

それは意外な言葉だった。

「自分には空手しかありません。でもそれは全然通用しなかった。
 だからもっと腕を磨いて……」

斉藤は珍しく能弁に話を続けたようだが、男の耳にはそれ以降届いていなかった。
声が届かなくなってから数秒なのか数分なのかは思い出せないと後に
男は語ったが、

「斉藤。練習、するか」
「はい、お願いします!」

もう数日で年が明ける早朝、ただ強くなるがために汗を流す。
ただそれだけは覚えていた、と。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック